【横谷、初災害救援で半泣き 第2話】
=前回までのあらすじ=
バイトを休み災害救援活動に参加した1年生の横谷。
長距離移動の疲労をそのままに出た現場では、松岡修造かのようなアツい先輩に半ば暑苦しさを感じながら、床下にたまった土砂のかき出し作業をしていた。
ついつい、休んだバイトとしんどい作業を頭の中で天秤にかけてしまう横谷だったが、最初は暑苦しかったはずの修造の言動に気持ちが高まり、丁寧に作業をこなす自分に気づいていた。
そして迎えた、昼食の時。作業のしんどさへの愚痴をついついこぼしている時、現地のおっちゃんがボソッとつぶやいた。
12時頃、お昼休憩の時間。 作業を共にした学生とご飯を食べながら、「臭いきっつ!」やら「暑すぎ!死ぬ!」など愚痴をこぼしている時だった。
近くにいた、現地のおっちゃんがボソッと
「お前らすぐ帰るやないか」
「はぁ!?」
言いかけるが聞こえているのは私だけだと察し、飲み込んだ。
「わざわざ来てやってんのになんでそんなこと言われなアカンねん!」 と頭の中で叫んだ。バイトを休んで8時間バスに揺られて来て、臭いしキツイし暑い中、頑張っているのに何故そのように言われなければならないのか。腹が立って仕方がなかった。
「自分の家やと思ってやりや」
修造の言葉が頭に浮かぶ。なんとなくだが自分の家と思って作業していれば少なくとも「お前らすぐ帰るやないか」とは言われない気がした。ただ、その気づきは気がした程度の確固としたものでなく、その程度の気づきはある種のガソリンとなって、私の怒りを余計に燃え上がらせた。
そして、「やからなんやねん!」と修造の言葉を一蹴した。
私はわざわざボランティアしに来たのに現地の方に心無いことを言われた可哀そうな人、そう自分を思い込んでいた。
13時頃、休憩を終え作業現場のお宅に戻る。
午前と同じ作業現場。午前と同じ人員配置。
なのに何故かしっくりこない。午前と何か感じが違う気がした。 その理由はすぐに分かった。
「家やん。住んでたんやん。清掃活動くらいのノリでやってるけど家やん」
午前中、清掃活動に勤しんでいた私には感じ取れなかったことだった。
床板が剥がされた家。異臭のする家。床下に土砂が詰まった家。他人に土足で上がられる家。
自分の家だと思うとゾッとした。こんなところでくつろげないと思った。そして自分なら今後この家に住めるだろうかと考えた。住みたくないと直ぐに思ったが、そんな簡単なことではないと直ぐに思い直した。
第一、どこに住むのか。休みの日は自分の部屋から一歩も出ない事もある程、自分の家大好き人間の私には想像もつかなかった。どんな姿になっても住む場所は自分の家以外考えられない。けれど、住めないかもしれない。知らない場所で一から生活を始めないといけないかもしれない。仮に新しい住居を見つけたとしても、他人が土足で上がるようなくつろげない家で当分は過ごさなければならない。
私は勝手にお先真っ暗になった。
そして、午前中の自分の取り組む姿勢、お昼のデリカシーの欠けた態度、思考に嫌悪し恥じた。 先行きが見えない不安、自己嫌悪、羞恥で心がグッチャグチャになった私は他人の目がなければ落涙していただろう。
先輩を見る。明るく、笑顔で振舞うその姿。彼は現地の方々の全てに配慮しているように見えた。そして、朝「自分の家やと思ってやりや」と言う前にそう思った背景も一緒に伝えてくれていれば私はネツハラとは思わず素直に受け取れてもっと有意義な時間を過ごせたのに、とそれまでの自分を先輩のせいにして乱れた気持ちを整え、午後の作業に取り組んだ。
午後の作業も変わらず過酷だったが、休んだバイトが頭の中でチラつくことはなかった。
この体験は私が初めて参加した災害救援、第3・4次平成29年九州北部豪雨災害救援(福岡県、朝倉市)でのことだ。
先輩の言葉と姿、おっちゃんのつぶやきで現場を自分事として捉えられ、被災し先行きが見えない不安を直に感じられた。感じられたことで、自分の家、生活を失いたくないと強く思った。これが減災に興味を持つキッカケになっている。
この記事を書いた人
28期減災ファクトリー西日本工場長
1年生時に災害救援活動に参加し、その現場での経験から防災・減災に目覚める。その後、防災士の資格を取得したほか、クラブでの減災事業の実施などに取り組んできた。 好きな歌手誰?と聞かれた時に本当はスガシカオだが、それではハネないのでKing Gnu と答えがち。
※減災ファクトリーとは
①減災についての知識を持つ人をどんどん生み出していく場
②子ども向け防災プログラム実施を形にしていく製作所
という2つのメッセージが込められたチームです。
様々なコンテンツやイベントを設置しながら、“減災”の考えと行動の普及を目指して活動しています。
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