選挙に行っても意味がないと思っていませんか?

10月21日に衆院議員が任期満了を迎えるので、10月か11月に衆院選挙が行われます。

また、実質的に日本の首相を決める自民党総裁選挙が9月29日に実施予定です。菅現首相は立候補せず、「誰が立候補するのか?」「立候補に必要な推薦人は集められるのか?」といった情報が盛んにメディアで報じられていますが、自民党員でなければこの選挙にかかわることはできません。

コロナ禍の中では、緊急事態宣言をどの基準・タイミングで発令するかというような政治決定が私たちの生活やIVUSAの活動にも大きな影響を与えます。つまり行政のリーダーシップや決断が非常に重要であるわけですが、議院内閣制の日本では日本政府のトップを私たちが直接選ぶことはできないわけです。


議院内閣制とは、国会の信任にもとづいて内閣がつくられ、内閣が国会に対して責任を負うしくみをいいます。日本やイギリスで採用されています。具体的には、内閣のトップである内閣総理大臣(首相)は、国会によって国会議員の中から指名されます。また、閣僚の過半数も国会議員の中から選ばれます。基本的に国会の過半数を占める与党の党首が選ばれます。それに対し、行政権のトップを直接投票で選ぶしくみを「大統領制」と言います(アメリカとかフランスなど)。


さてこれを読んでいる皆さんは、「選挙で議員を選ぶのが当たり前」「民主主義がもっとも正しい社会のあり方である」とこれまで習ってきたと思いますが、アフガニスタンやミャンマーなどででも分かるように民主主義陣営は世界的に見ればむしろ後退気味であり、民主主義の「制度疲労」も指摘されています。


改めて普通選挙をベースとする民主主義のあり方や課題、そして可能性について考えていただくために、

①民主主義の「制度疲労」の具体的な症状

②民主主義のアップデート(試行錯誤)の歴史

③選挙以外で政治に参画するため方法いろいろ

についてまとめてみました。ベースとなるのは、以下の三つの本です。


『民主主義とは何か』 (講談社現代新書)

筆者は宇野重規さん。東大の先生で1年前の菅政権初期にあった学術会議の任命拒否問題で、拒否された6人の一人。


『選挙制を疑う』(法政大学出版局)

筆者はダーヴィッド・ヴァン・レイブルックさん。ベルギー出身の作家。この本は欧米でベストセラーになっており、帯には「民主主義の再生のため、議員はくじで選ぼう」と結構すごいことが書いてあります。


『現代民主主義―指導者論から熟議、ポピュリズムまで』(中公新書)

筆者は山本圭さん。立命館大学の先生。あまり初心者向けではないけど、比較的読みやすいです。


* * *


IVUSAでも30期の選挙が近づいていますし、組織・団体を運営していく上で、より多くの会員に当事者意識や責任感を持ってもらうためには、どのような選挙のあり方が適切なのかを考えていくきっかけにしていただければ幸いです。

なお、この記事は10月2日に行うクロスカフェのための事前資料として作成したものです。




1.あなたの無力感はどこから?(民主主義の「制度疲労」)

■誰に投票したらいいか分からない

皆さんは今度、衆院選挙に行きますか?

かつて70%くらいあった国政選挙の投票率は、今は5割前後。IVUSAの会員の皆さんの世代に限っては選挙に行く人の割合は半分以下です。

総務省ウェブサイト https://www.soumu.go.jp/senkyo/senkyo_s/news/sonota/nendaibetu/ 


また、2019年の参院選挙を前に、言論NPOという団体が行った世論調査が非常に興味深いです。選挙で選ばれた政治家が国会で議論を行い、国会で選ばれた内閣が行政を統括する代表制民主主義の現在の状況について、「信頼している」と回答したのは32.5%と3割程度に過ぎず、「信頼していない」(24.4%)、「どちらともいえない」(24.6%)を合わせると半数に達し、代表制民主主義に対して懐疑的な見方が高まっています。


政党支持率を見ても、ずっと「支持政党なし」の割合がトップです。

では、このような「政治離れ」の原因はどこにあるのでしょうか?若い世代に関しては、今の議員が自分たちの利益や代弁していないということがあるでしょう。


また、特に学生は他の世代と比べて政治的な利害関係が弱く、そもそも政治に参画する動機が低いのかもしれません。

IVUSAの会員と話していてよく聞くのは、「どの政党がどんな政策をしているのか、その違いがよく分からない」「分からないのに投票してもいいのか」といったことです。



■緊急事態にうまく対応できていないんじゃない?

新型コロナウイルス感染拡大が止まらない事態を、フランスのマクロン大統領をはじめ何人かの首脳が「戦争状態」と呼びました。そこでロックダウンといった個人の自由や権利を大きく制限する対策が必要とされ、実行されたわけですが、中国は個人の位置情報や移動記録、決済データ、病院での診療記録などを結び付け、徹底的な個人情報管理を行いました。「プライバシー、何それ美味しいの?」状態です。


結果として、中国は初期対応こそ失敗しましたが、ロックダウンや迅速な病院建設などによってコロナの封じ込めに成功したと言われています(もちろん中国当局の発表するデータの信用性は、Facebookのユーザー数やデーモン小暮閣下の年齢と同じくらいだという意見もありますが…)。


もちろん、封じ込めに失敗した専制主義的(独裁的)な国家もたくさんありますが、一見して民主主義国家よりもうまくやっているんじゃないかという考えを持つ人も一定数出てきたのも事実です。


国の民主化度と、100万人あたりの死者数との相関を調べた研究もあります。

https://www.rieti.go.jp/jp/papers/contribution/narita-yusuke/04.html


その一方で、日本のように行政が「自粛要請」だけをして、「あくまで個人・事業者の判断でしたことですから、行政は最終的な責任は負いませんよ」といったスタンスを貫いている国もあります。明確な法的根拠に基づいた指示・命令ではなく、「空気」や「自粛警察」によって私権を制限されていることに対して、ストレスやフラストレーションを感じている人も多いでしょう(私もその一人ですが)。

このような民主主義社会が抱える問題を、『選挙制を疑う』では「民主主義疲れ症候群」と呼んでいます。



2.常にチューニングとバージョンアップが必要なシステム(民主主義のアップデートの歴史)

「民主主義は最悪の政治といえる。これまで試みられてきた、民主主義以外のすべての政治体制を除けばだが」というのは第2次大戦時のイギリスの首相チャーチルの言葉ですが、民主主義は最善の政治体制というよりは、「より害の少ない」ものとしてこれまで認識されてきました。しかしそれでも、民主主義は古代ギリシャ以来、「衆愚政治に陥る」とずっと批判され続けてきました。

ここでは、民主主義という社会のしくみのアップデートの歴史を、ごくごく簡単にふり返ってみたいと思います。


■古代ギリシャのポリス(アテナイ)での直接民主制

皆さんは歴史で、古代ギリシャが民主主義の発祥だと習ったと思います(厳密にはいろいろ説があるみたいですが…)。


ポリスには、「民会(エクレシア)」と言われる議決機関があり、ここで市民権を持つ市民が直接参加して、ポリスの基本的な政策決定や裁判が行われていました。そして一部の例外を除き、すべての公職が抽選で選ばれたのです。つまり、すべての市民はポリスを運営していく責任を負う可能性がありました。専門的に政策を立案する「官僚」も、公共サービスを担う「公務員」のような人はまだいなかったのです。さらに職業軍人もいなかったので、戦争になれば普通の市民たちが武器を取って戦いました。


ただ、古代ギリシャの市民には女性や外国人、奴隷は含まれません。一つのポリスの人口も最盛期のアテネでも5~6万人程度で、重要な議決には6,000人の市民が集まって議論したと言われます。マイクも拡声器もない中で、さぞ「密」になったことでしょう。ちなみにアリストテレスはポリスの理想的な人数を5,040人としています(今の関川村くらいでしょうか)。このような条件下だからこそ、直接民主制が成り立ったわけですが、それでも民主主義を考えるうえで、参照すべき「原点」なのは間違いありません。

 

そして、このような「民主的な」裁判によって師のソクラテスに死刑を宣告したアテナイと民主主義をプラトンは激しく批判しました。プラトンは民主主義にかわり、「多数者の決定だからといって正しいとは限らない。そうだとすれば、政治をより良いものにするには、一人ひとりの人間を道徳的にしていくしかない。政治家は自らが道徳的であるだけでなく、人々を道徳的に陶治する能力を持つべきであろう」(『民主主義とは何か』)という「哲人王」の理想を提唱したのです。



■代表者を選挙で選ぶ「議会制」

私たちがふつう「民主主義」として考えている社会体制のルーツを考えると、フランス革命やアメリカ独立宣言にいきつきます。それは、「代表者によって構成される議会があり、複数の政党が競合しながら存在し、定期的な選挙で政治家を交代する仕組み(普通選挙)を備え、主権者は君主や貴族ではなく国民である、といった基本的な構造」(『現代民主主義』)といったものです。


しかし、フランス革命やアメリカ建国の担い手たちは、自分たちを「民主主義者」と自覚していなかったようです。彼ら革命指導者の多くは、法律家、大地主、工場主、船主、プラテーションや奴隷の所有者(アメリカのみ)であり、「戦いを挑んでいる体制とのあいだに社会的・家族的な繋がりのある者も少なくなかった」(『選挙制を疑う』)のでした。そして彼らエリート層の大半が、「民主主義は大混乱や過激化を意味すると考え、距離を置きたがった」(前掲書)のです。

 

つまり議会制というのは、民衆・大衆(デモス)が直接政治にかかわるのではなく、選挙というワンクッションを置くことで、きまぐれで不安定な「民意」に振り回されないようなしくみとして設計されていたということです。そういった意味で、彼らは民主主義者ではなく、「共和主義者」と自分たちを認識していました。



■エリート民主主義

20世紀になって限定的とはいえ普通選挙が実現し、選挙権を持つ者が増えた一方、産業が発達し、社会のしくみがますます高度化しました。当然、知識人をはじめとするエリートたちは、大衆は政治について適切な判断ができるのか、一人前の政治の担い手になれるのかという疑念をずっと持っていました。20世紀のはじめは、このような問題意識の下、大衆の政治参加を制限し、国をリードする指導者はどうあるべきかということが民主主義に関する議論の中心でした。


「情熱・責任感・判断力」を持って政治にあたり、その結果にも責任を持つすぐれた政治的指導者の必要性を訴えたマックス・ウェーバーや、民主主義と「独裁」は両立するとまで言い切ったカール・シュミットなどが有名ですね。


独裁と民主主義は正反対だろうというツッコミはありますが、シュミットによれば、議会政治では国民は代表者を選んだのちには何もできないような「見えない政治」であるから、「歓呼と喝采(かっさい)」によって主権者(例外状態にかんして決定をくだす存在)の「上からの命令」に「下から呼応」するような「見える政治」に変えなければならないということのようです。何となく、政治家の威勢のいい発言に対して、SNSで拍手喝采する人たちをイメージしたら分かりやすいかもしれません。


皆さんお気づきのように、このような指導者の役割を強調し、そこに全権委任するような論調がナチスを生み出したわけです。


最後に、選挙を政治家が切磋琢磨する機会と考えたヨーゼフ・シュンペーターという人を紹介します。彼によれば、民主主義とは「指導者たらんとする人々が選挙民の投票をかき集めるために自由な競争をなしうること」(『資本主義・社会主義・民主主義』)だそうです。


もちろんこれもエリート主義的考えなのですが、シュンペーターはもともと経済学者なので、市場原理的な考えを導入したのはユニークと言えるのではないでしょうか。ここでは、民衆(有権者)は主権者というより政治家を選ぶ「消費者」と言えます。


そして、このようなエリート民主主義に反発するのがポピュリズムです。「有権者の皆さんは腐敗したエリートによる支配の被害者なんですよ」というメッセージを出しながら支持を得ようというするわけですね。この問題については紙面の関係で割愛します。



3.役職者はくじで選ぼう!(選挙以外で政治に参画するため方法いろいろ)

■政治にかかわるチャンネルは選挙だけではない

ルソーの言葉に、「人民は自由だと思っているが、それは間違いだ。彼らが自由なのは選挙のときだけである。代議士が選出されるや否や、奴隷になり、無に帰してしまう」(『社会契約論』1762年)というものがあります。

それでは選挙以外では私たちは政治や公共のことがらに働きかけることはできないのでしょうか?

政治を代表者としての政治家やエリートとしての官僚にだけ任せるのではなく、市民みずからが声を上げ、担っていこうというのが「参加民主主義」というトレンドです。具体的には、「住民投票や国民投票といったレファレンダムから、自治体の住民組織や市民委員会、NPOやNGO活動、エネルギー政策や環境政策にかんして議員や官僚にロビイングする市民団体に加わることも政治参加である。街頭でのデモもまた、参加民主主義の重要な要素である」(『現代民主主義』)ということです。

IVUSAが今、進めている「同期会」もこの文脈で理解すると分かりやすいかもしれません。


しかし、このような政治参画は「ふつうの市民」にとってはハードルが高く、「結局はエリート主義的であるとの誹りは免れない」(前掲書)も事実です。またその政治的なメッセージは、イデオロギー的に偏っていることも多く、あまりに政権批判的で「サイレント・マジョリティ」の声を反映しているのかという批判もあります。東京新聞の望月衣塑子記者が、記者会見の中で当時の菅官房長官に、「国民の代表として質問している」と言った時に、「誰がお前を代表として認めたんだ?」という声がSNSで溢れたこともありました。


結果、この「参加民主主義」自体、特に若い世代にとって参加し難いものになっているのではないでしょうか。実際、デモに行けば高齢者が多いですし、若い世代ほど安倍政権の支持率が高かったのも事実です。



■くじびきこそが民主的?

そこで現在、注目されているのが「くじびき民主主義」です。下村代表が冗談のように、「そんなのはくじで決めたらいいじゃないか」と言うことがありますが、くじびき(抽選制)こそが民主的であるとは、アリストテレスやモンテスキューも言っていたことでした。アリストテレスによれば、選挙は「少数による支配」を意味する寡頭制や貴族制の社会のものなのです。


私たちは「民主主義と言えば選挙」というような固定概念がありますが、それを「選挙原理主義」としてレイブルックは以下のように批判します。

「選挙制は、いわば政治の化石燃料である。経済における石油と同様に、民主主義を大きく推進してきた。しかし、新しい深刻な事態を引き起こしていることは、いまや誰の目にも明らかである」。

くじびきで代表者を決めると言っても、今いる議員をすべてクビにして新たに選び直すというわけではありません。例えば、フランスではマクロン大統領が、全国から抽選で選ばれた一般市民150人が脱炭素社会の道筋について話し合い、政府はその結果を基に国民投票を実施することを約束しました。


このように特定の課題やテーマ(選挙制度改革や憲法の改正など)に関して、まず抽選で討議をしてもらう市民を選び、そこで議論し決定した案を、議会や国民投票で公的に可決するというプロセスを経ることが多いです。実際に、カナダ、オランダ、アイスランド、アイルランドなどで行われました。その詳細は『選挙制を疑う』に載っています。日本でも無作為抽出された人が裁判員として裁判に参加する制度が2009年から始まりました。

https://www.nichibenren.or.jp/ja/citizen_judge/about/index.html


もちろん、「素人をくじで選んだらそれこそ衆愚政治に陥るんじゃないか」という批判も当然あるでしょう。そこで重要なのが「熟議」というプロセスです。『現代民主主義』から引用します。


熟議民主主義は、公開の討論のなかで、多様な意見から公正な意思決定を行うための手続きを重視し、そうした手続きを経て得られた結論には正統性があると考える。これを手続き的正統性と言う。
熟議では、特定の人々を恣意的な仕方で排除することがあってはならない。原則的には、その決定によって影響を蒙るであろうすべての人々、ないしはその代表者の参加が認められているべきである。
熟議の参加者は平等であり、誰もが意見を述べ、議論を開始し、疑問を呈する機会を等しくもつことが必要である。社会的な立場や権力関係を熟議に持ち込むことは、望ましい熟議の条件を破壊するだろう。したがって、熟議は対当者のあいだで行われなければならない。ここには忖度やへつらいに居場所は与えられていないのだ。


詳しくは皆さんもぜひ本を読んでいただきたいです。IVUSAでもものごとを決める際にとても参考になると思います。

ただこの熟議民主主義にも、その場の空気でコンセンサスを強要されるんじゃないかという批判もあることを付け加えておきます。



まとめ

ここまで読んでいただいてありがとうございます。

民主主義は常に問題をはらみ、批判を受けながら変化してきたことが分かっていただけたのではないかと思います。ですから「民主主義とは何か?」ということを簡単に説明することはできません。

それでも民主主義を端的に言うなら、「参加と責任のシステム」(『民主主義とは何か』)と言えそうです。それは国や自治体レベルだけの話だけでなく、IVUSAの運営も含め私たちの身近なことがらにも共通して重要なポイントなのです。

でも、まずは選挙に行きましょう!(IVUSAの30期選挙は12月12日です)





この記事を書いた人

理事・事務局員 伊藤 章

IVUSAの中では管理業務一般と、広報や社会理解学習のプログラム作りをする係。最近は、海ゴミ問題のキャンペーン「Youth for the Blue」も担当


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