自分の読んだ本をおススメしていこうというシリーズを作ってみました。皆さんも投稿、大歓迎です。
■今回の1冊『イスラム教の論理』(飯山 陽著 新潮新書)
最初にお断りしておくと、イスラム教の「入門書」としてはおススメできないです。 ビギナーの方は、池上彰さんとかの本を読んでウォーミングアップしましょう。
この本の帯にはこんなことが書かれています。
“「イスラム国」のイスラム教解釈は間違っていない
世界征服はイスラム教徒全員の義務である
人口増加でイスラム教徒を増やす「ベイビー・ジハード」
「地元のゴロツキ」が自爆テロに走るのは「洗脳されたから」ではない
レイプの被害者は「姦通」で鞭打ちされる”
いかがでしょうか?
イスラム教は本来平和的な宗教であり、一部の過激派がテロに走っているのだと考えている人には、いきなり冷や水を浴びせかけられたような感じではないでしょうか。もちろん、多くのイスラム教の指導者が「イスラム過激派やテロ活動はイスラムのおしえとは一致しない」と声明を出しています。
しかし、筆者はそのような「反テロ宣言」をするイスラム教指導者を、西洋社会の要請する「正しい」イスラム教という型に自らをはめていると指摘します。つまりは、西洋社会に「迎合」しているというわけです。
なぜなら、コーランには「あなたがたには戦いが定められた。だがあなたがたは戦いを嫌う」「騒乱がなくなるまで戦え。そして宗教すべてが神のものとなるまで(戦え)」などの言葉があり、
“コーランに立脚していさえいれば、そこから導かれる解釈がたとえ敵意をあおり、戦争をけしかけるような過激なものであっても「正しい」、というのがイスラム教の教義です。そもそもそれが好戦的なものであるかどうかということは、その解釈の正しさを判断する基準にはなりません。なぜならイスラム教においては、倫理的判断も法的判断もその唯一の源は神であって、人間の理性ではないとされているからです。”(傍線は引用者)
一方では、コーランには「人を殺した者、地上で悪を働いたという理由もなく人を殺す者は、全人類を殺したのと同じである」という言葉があり、「反テロ宣言」の根拠にもなっています。 つまりどちらもイスラム教の解釈としては「正しい(間違っていない)」と筆者は言います。
もちろん、宗教自体のオリジナルの教義に「過激」なものがあったとしても、実際の社会においてはいろいろ「折り合い」をつけている人たちが多数派なわけですが、オリジナルの教義に立ち返ろうという「原理主義的(ファンダメンタル)」な動きは歴史の中で常にありました。
キリスト教においても、宗教的な儀式(やそれに伴う金儲け)を中心とする形式主義に堕ちたカトリックに対し、「聖書のみ」「信仰のみ」の立ち返ろうというのがプロテスタントの始まりでした。 「イスラム国」も、社会の安定を重視する穏健派・多数派に対し、コーランのテキストや預言者ムハンマドの言行に忠実に従うという姿勢を見せているわけで、私たち日本人の多くには理解できなかったとしても、イスラム社会の中では一定の共感と理解を得ているのも事実なのです。
その他にも、人権という視点から見ても、到底受け入れられないものもイスラム教にはたくさんあります。例えば…
不信仰者に対してはまず宣教を行い、従わない場合には武力で制圧して殺害するか奴隷化するというのは、コーランやハディースに立脚したイスラム法の明確な規定です。
この本を読むと、「イスラム教は恐ろしい」と思ってしまうかもしれませんが、ムスリムの人たちの価値観から見れば、私たちの社会で起きている多くのこと、例えば「唯一の神を信じないこと」「結婚相手以外と性交すること」も「恐ろしい」のでしょう。
いずれにせよ、イスラム教の本質的な教義は、信教の自由や言論の自由をベースとする民主主義とは両立し得えないということがこの本を読んでみて嫌というほど分かりました。
今後、人口がますます増えていくイスラム教社会とどう共生・共存していくのか?
「共に生きる社会」を考える上で、外せないポイントです。
精緻で、容赦がなく、身もふたもないロジック展開は痛快とも言えます。
最後に、もう少し希望的なことを書いて欲しかったですが…。
この記事を書いた人
事務局長 伊藤 章
IVUSAの中では管理業務一般と、広報や社会理解学習のプログラム作りをする係。最近は、海ゴミ問題のキャンペーン「Youth for the Blue」も担当
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