振り返る阪神・淡路大震災vol.001【Youth for the Resilience】

1995年1月17日5時46分に発生した、M7.3の直下型地震は兵庫県淡路島から神戸市を中心に近畿圏に大きな被害をもたらしました。

家屋の倒壊や火災延焼により犠牲者が5,000人を超え、その後の災害関連死も900人以上。死者・行方不明者6,434人という戦後最大級の都市型地震災害となった。

IVUSAは世田谷警察署に緊急車両許可証を発行してもらい、水、食料、テントを積んだトラック3台とワゴン車6台で神戸に向かった。三木市にあるグリーンピア三木(兵庫県救援物資備蓄基地となった、現ネスタリゾート神戸)にベースキャンプを張り、神戸市内3か所の避難所に小隊を派遣。
本隊は備蓄基地内の仕分け・整理、現場の小隊からのニーズを集約し、救援物資の配送を担いました。


今回は、最も被害の大きかった神戸市東灘区の避難所に派遣されたメンバーに1次隊の思い出を語っていただきました。
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今井祐亘さん(当時:国士舘大学4年生)
内倉浩支さん(当時:国士舘大学4年生)
藤本行和さん(当時:国士舘大学4年生)  
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内倉:この写真見てわかる?真ん中の堀の深い美人さん。神戸で越田のおばちゃんの娘。

今井:ユカちゃんか!面影あるかわからんな。当時小学生だったんじゃない?


内倉:12歳。6年生だったって。越田のおばちゃんつながりで、年賀状のやり取りだけしてたんだけど。この間、親父のキャンプ場にBBQに来て、ご主人とお子さん連れて。 25年ぶりです。わかりますか?って。ユカちゃん泣きながら当時のお礼をずっと言いたかったって。。。こっちも泣いちゃってさぁ。

藤本:越田のおばちゃんには助けられたよな。最初から俺たちの味方になってくれたよな。

藤本:東京出てベース張るまで24時間以上かかったよな。

内倉:吹田JCT過ぎたあたりで高速降りなきゃダメで。

藤本:緊急車両許可証の車で大渋滞。車降りてトイレ、買い物してもほとんど動いてないくらい。

今井:潰れたビルやら家やら、どんどん被災状況が目に飛び込んできて、とんでもないことになっとるって・・・

内倉:お前さん寝てたじゃん。ずっと。

今井:英気を養ってたんじゃ。ちゃんと起きてたわ!

藤本:そんなこんなで神戸市役所、東灘区役所などで情報収集を行い、三木市に移動。ベースキャンプを張って就寝。朝起きたら、物資の備蓄基地だったことが判明。テントの中のペットボトルの水が氷るくらいの寒さだった。

内倉:そこからは怒涛の動きだったよね。本隊と現地に行く小隊を分けて、我々は東灘区へ。
避難所につくと何とも言えないどんよりとした空気感。完全なアウェーというか、歓迎も期待もされていないというか、勝手にすれば的なね。

今井:あの周りの被災状況じゃぁ仕方ないな。まずはどれだけ味方をと考えたときに、フィーリングが合う人をって思って、片っ端から話しかけてな。越田のおばちゃんもそん時の一人。とにかく、一生懸命に自分のことより周りの人のことを重んじて行動してたと思う。

内倉:寒くて、火に当たりながら、「関東のもんが~」とか「冷やかしかぁ~」って言われて、私がキレちゃって...「俺たちも真剣に本気で来ているんだ!」って言い返してしまった...それを止めてくれたのが冷静な今井だったね。後味の悪さと、やっちまった!感はすごく覚えている。

藤本:「おまえらには、帰る家がある」「いつかはここから、居なくなる」辛い言葉だった。
でも、期限付きだからこそ、全力で頑張った。

今井:あの時は毎日が物資を盗みに来る輩と戦い、余震が来る度に校舎を見回り。家族の大事な思い出があるとの事で壊れた自宅に物探しに入り、いつ潰れるかどうかに脅えていた。お前らは帰ったら住む家も食べる物もあるから良いわなと嫌みを言われた思い出がある。だからマジで喧嘩して1日数時間の睡眠で徹底的に夜回り、被災者の援助、物資を確保し本部から配送。出来る限りの事はやったと思うよ。

内倉:まずは受付を作ろう!から始まったよな。中高生何人か引っ張り出してさ、体育館の横に本部受付作って、その後ろに物資整理庫。途中からはその子たちが「何がいくつあるか、すべて把握しようや!」と本気になって、段ボールの紙に倉庫の配置図を書いてやりとげた。

(写真:避難所受付づくり)


藤本:情報の整理もやった。人探し、安否確認、物資情報、役場からの情報などなど、整理して張る作業。そのうち若者だけじゃなく大人たちも協力してくれるようになって。

今井:本当、みんな手探りで、良くマニュアルに近いもの作るまでできたって、今思うと震えが来るね。無意識とは本当に馬鹿力が出るんやなぁ。
無いなら作れ、どうしたらみんなに喜んでもらえるか。もう滅茶苦茶(笑)考えて実行してまたベストを考えてって...、充実感あったやろな。

藤本:あと、現場の支えになった一番は、三木の本部からの夜間の支援物資配送だな。この後方支援がなかったらあそこまで周辺地域全体からの信頼は勝ち取れなかった。あとは自衛隊との協力・情報共有、24時間体制のローテーション、炊き出し支援団体との連携などなど、今考えても画期的なことしてたよ。


内倉:ユカちゃんがさ、「当時、地震直後で、不安で不安で恐くて恐くてどうしようもない状況にあった時に、元気な大学生のボランティアがいっぱい来て、面白おかしくにぎやかにしてもらい、不思議と、寂しくなかったこと、元気と勇気をたくさんもらった」って話をしてくれてさ、当時を思い起こせば…学生だった俺たちは、ただただ…地震に遭われて大変な思いをしている人達のために、何かをしたい!という…単純に熱い想いだけで…無我夢中で…ボランティアなんて、美しいもんじゃなく…崩れかけた体育館で一緒に寝起きを共にしただけ。ただただ熱い気持ちだけ…そんな感じだったよね。


藤本:その結果が、避難所にいる人たちと一緒になって当番制などのルールやマニュアルとなり、私たちが撤収する上で必要なことにつながった。

今井:撤収はつらかったな。まさに、俺たちは布団で寝られる環境に帰るんだもんな。だから最後の撤収の時、申し訳なさが込み上げてさ、皆さんにってエールを送って...。

内倉:体育館の舞台の上、天下の国士舘大学応援団のエール。しびれたよ「フレーッ!フレーッ!神戸!フレーッ!フレーッ!…」って。最後、車で校庭から道路に出るまで避難所のみんなが花道を作って、拍手で送り出してくれたのは今でも思い出すと目頭が熱くなる。藤本の「国士撤収!!」も。

藤本:本当に大勢の方に見送りいただいたよな。たくさん悲しい話を聞いた。でも、最後に希望の光が見えたよな。みんな大泣きして車に乗り込んでさ。
今、コロナ禍で人と人との接触を少なく、なんて言ってるけど。人は人にしか救われないんだよな。

今井:そうだな。本当の偽りのない交わりじゃないかな。

内倉:当時は、被災者とボランティアなんてルール?なんてなかったけど、俺たちのやり方は、目線を合わせて、被災者じゃなく被災地にいる住民と向き合う、そんな泥臭い学生さんたちだったんだろうな。




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▶『Youth for the Resilience』とは
東日本大震災から10年となる今、私たち若者が自らの大切なものを守るための「備え」と「行動」を身につけることを目的とした「若者の災害対応力向上キャンペーン」です!
「#Y4R」

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事務局 三浦 慎爾
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